Mag-log in会計を済ませると、私は黒い魚のキーホルダーを帝人さんへ渡した。
「こちらが帝人さんです」
「違う」
「まだ言うんですか?」
「俺が茶色を持つ」
「自分に似た方を持つものでは?」
「小春からもらった小春を、俺が持つ」
説明されるほど恥ずかしくなる。
「では私は黒い方ですか?」
「ああ。小春が俺を持て」
「言い方が強いんですよ」
「事実だ」
帝人さんは茶色い魚を大事そうに手のひらへ載せている。
数百円のキーホルダーを、重要な契約書より慎重に扱っているように見えた。
「どこにつけるんですか?」
「鍵だ」
「ご自宅の?」
「ああ」
毎日使うものを選んだらしい。
「会社用の鞄ではないんですね」
「人に見せるためにもらったのではない」
意外な返事だった。
「小春が俺へ贈ったこと
翌日の役員会議で、私は一度だけ口を開きかけて、やめた。 議題は新規物流拠点の再編計画だった。 帝人さんの案は数字の上では合理的だった。 拠点を一つ減らし、処理量を二か所へ集約する。 設備投資を抑えながら稼働率を上げる。 計算としては通っている。 ただ、資料の端に書かれている「夜間人員再配置」という文字が気になった。 現場側の勤務負担が増えないだろうか。 でも。 昨日のことを思い出した。 私が言えば、帝人さんは聞く。 誰かがそれを利用しようとするくらいには。 なら私は、自分の言葉をもう少し慎重に使った方がいいのかもしれない。「次」 帝人さんが会議を進める。 私は何も言わなかった。 数分後。 また別の資料で、気になるところを見つけた。 今度も口を開かない。「小春」「はい?」 突然名前を呼ばれた。 役員たちの視線が集まる。「何かあるなら言え」「いえ、大丈夫です」「大丈夫じゃない」 帝人さんが私を見る。「さっきから二回、何か言おうとしてやめた」 見られていた。「……後で話します」「今言え。今の議題に関係するなら、後では遅い」 逃げられそうにない。 私は資料へ目を落とした。「夜間人員の再配置なんですけど、現場の負担試算は入っていますか?」 担当役員が答える。「人件費と必要人数は算出しています」「人数ではなくて、勤務の組み方です。二拠点へ処理を集約すると、夜間帯の波が今より大きくなりませんか?」 担当者が資料を確認する。「そこまでは……」 帝人さんがすぐに口を開いた。「追加で出せ。夜間の時間帯別処理量と必要人数、連続勤務への影響まで見る」
その話を持ちかけられたのは、昼休みが終わった直後だった。「倉橋さん、少しいいですか?」 声をかけてきたのは事業企画部の部長だった。「はい」「ちょっと相談がありまして」 手にしているのは、来期の新規投資案件に関する資料らしい。「社長へ上げているんですが、なかなか承認が下りなくて」「そうなんですか」「内容自体は悪くないと思うんです。ただ、数字の見せ方が少し弱いのかもしれなくて」 ここまでは普通の相談だった。 だから私も資料を受け取ろうとした。 けれど。「倉橋さんから一言、社長に言ってもらえませんか?」 手が止まった。「私から、ですか?」「ええ。倉橋さんの話なら社長も聞くでしょう?」 悪意がある言い方ではなかった。 むしろ、当然のようだった。「『一度ちゃんと見てあげてください』くらいでいいんです。倉橋さんが言えば、少なくとももう一回は検討してもらえると思うので」 私は資料から手を離した。「それはできません」「え?」「内容を整理するお手伝いならします。でも、私から帝人さんに承認を促すことはしません」「いや、承認してくれとまで言っているわけでは――」「同じです」 私は相手を見る。「私を通せば帝人さんの判断が変わるかもしれない、という前提で頼んでいますよね」 部長が言葉に詰まった。「それは……多少は」「なら、なおさらできません」 帝人さんに意見を言うことはある。 止めることもある。 違うと思えば、違うと言う。 でもそれは、誰かの希望を通すためじゃない。「帝人さんが承認していないなら、理由を確認して、そこを直してください。その上で再提出してください」「倉橋さんから言ってもらった方が早いと思ったんですが」「早
翌日の午後。「帝人さん。この会議、最初から出なくていいです」 私がそう言うと、帝人さんは資料から顔を上げた。「何だと?」「聞こえてますよね?」「聞こえたから理由を聞いている」 十五時から予定されているのは、新しい法人向けサービスについての社内会議だった。 企画部、営業部、運用部。 三部署が関わる。 すでに二度打ち合わせをしているのに、方向性が決まっていない。 だから三度目の今日は、帝人さんにも出席してもらいたい。 それが担当役員からの依頼だった。「二回やって決まらないなら、俺が決めれば終わる」「そこが問題なんです」「何がだ」「帝人さんが出たら、本当に終わるからです」 帝人さんの眉間に皺が寄る。「終わるならいいだろう」「よくありません」 私は会議資料を開いた。「企画部は機能を増やしたい。営業部は価格を下げたい。運用部は現状の人員では回せないと言っています」「だから優先順位を決める」「誰がですか?」「俺だ」「そこです」 帝人さんが黙る。「三部署とも、自分たちで何を優先して何を諦めるか決めていません。帝人さんが最初から入ったら、全員が帝人さんの答えを待ちます」「俺の判断が最適なら、それでいい」「一回ならいいです」 私は資料を閉じた。「でも毎回帝人さんが答えを出すなら、次も同じことが起きます」「なら、能力のない人間を替えればいい」「能力がないかどうか、まだ分かりません」 帝人さんの目が少し細くなる。「言いたいことを続けろ」「三部署は、それぞれ自分の立場ではちゃんと考えています。ただ、お互いに何を譲れるかを話していないんです」「だから会議をしている」「二回とも、帝人さんに上げるための主張
月曜日の朝から、帝人さんの予定表はひどいことになっていた。 九時から役員会議。 十時半から海外事業部との打ち合わせ。 午後には来客が二件。 その合間に承認書類と決裁案件が積み上がり、さらに朝一番から「至急」の文字がついた連絡が三件届いている。 私はタブレットを見ながら、一つずつ内容を確認した。「小春」 執務室から呼ばれて顔を上げる。「はい」「十時の会議を追加しろ」「入れません」 即答すると、帝人さんがこちらを見る。「なぜだ」「今日の十時からは役員会議が続いています」「途中で抜ければいい」「抜けません」「十五分で終わる」「帝人さんが十五分と言って十五分で終わった会議、最近ありました?」 一瞬、黙った。「内容による」「つまり保証できないんですよね」 私は届いた資料を持って執務室へ入った。「追加したいのは、営業本部から来ている案件ですよね?」「ああ。取引条件の変更だ。俺が見た方が早い」「資料は確認しました」 机の前へ立ち、必要なページだけを開く。「今の段階では帝人さんが決めることはありません」「ある。変更案を見れば――」「その変更案がまだ一案しかありません」 帝人さんの言葉を止めた。「営業本部は、取引先から提示された条件をそのまま持ってきています。代替案も、利益への影響も、断った場合の想定もありません」「だから俺が聞く」「今聞いたら、帝人さんが代わりに考えることになります」 帝人さんが眉を寄せる。「俺が考えた方が早い」「早いです。でも、それを毎回やるから帝人さんに仕事が集まるんです」 私は資料を机へ置いた。「営業本部には、変更を受ける場合、条件を修正する場合、断る場合の三案を出しても
休日の午後。 仕事で使う資料を買いに出たついでに、私は駅前の商業施設へ寄った。 そこに入っていたゲームセンターの前で、少しだけ足が止まる。「入りたいのか?」「別に。ただ、久しぶりだなと思って」「なら入ればいい」「帝人さんも?」「小春が入るならな」 もう突っ込むのはやめた。 店内は明るい音と電子音でいっぱいだった。 私は適当に見て回る。 その途中。 UFOキャッチャーの中にいた、小さな猫のぬいぐるみが目に入った。「かわいい」 それだけ言って通り過ぎようとした。 帝人さんが止まった。「欲しいのか」「いや、そこまでじゃないです」「今かわいいと言っただろう」「言いましたけど、見ただけです」
休日。 お母様に呼ばれて皇家へ行った時のことだった。 お茶を飲みながら話していると、お母様が突然思い出したように立ち上がった。「そうだわ。小春さん、帝人の昔の写真見る?」「見たいです」「やめろ」 ほぼ同時だった。 私は帝人さんを見る。「なんでですか?」「見る必要がない」「必要はないですけど、見たいです」「だからやめろ」「小春さん、こっちよ」「母上!」 お母様は楽しそうに棚から大きなアルバムを取り出した。 帝人さんが珍しく本気で嫌そうな顔をしている。 これは見るしかない。「わあ……」 最初のページには、小学生くらいの帝人さん。 今より少し幼い。